2022年1月22日(土)
娘夫婦から牛タン1kgが冷凍宅急便で届きました。ふるさと納税返礼品のお裾分けとのこと。
納税先は宮城県亘理町?、いつもご馳走さま。😊
(⇒宮城県柴田町でした😆)
父不見山(群馬県神流町)
2022年1月18日(火)
「父不見(ててみえず)御荷鉾(みかぼ)も見えず神流川、星ばかりなる万場の泊まり」は、詩人で随筆家の尾崎喜八の「神流川紀行」に見える一首、この歌に惹かれて父不見山(地元の呼称はててめえじやま、標高1047m)には2回登りました。以下はその山行記2編。
1997年1月25日(土)
昨夜は万場町の山楽荘で懇親会、メンバーは山宮、内海、坂田、笠原、佐野、渋岡、石田、北林の8氏、今日は山へ行く約束である。今でも山里の風情は尾崎喜八の詠んだ歌のまま。7:30起床、卵納豆とニラの味噌汁で朝飯をたっぷり食べる。8:30勘定を済ませて出発、3日前の降雪が残っており、皆怖じけづいて結局山へ行くのは自分一人となる。何とも薄情なメンバーであるがやむを得ない。石田さんの車で送ってもらい、生利の万世橋畔で降りたのが8:50。北面を登るので積雪は気になるが天気は良い。万場高校&生利バス停の所で神流川を右岸に渡る。西上州の民家の佇まいはどことなく懐かしい。土坂トンネルを経て秩父吉田町へ通じる道は、路面が凍結してつるつる。9:40林道沢口線入り口、雪道を踏みしめて進む。青竹の一群が枯れた景色の中で鮮やか。10:00林道が交差する場所に「父不見山」の道標を見る。10:30再び道標、長い林道歩きに飽きる頃、行く手に東西御荷鉾山、オドケ山、赤久縄山などの稜線が見えてくる。空高く鷹が舞う。キツネなのか動物の足跡が点々と続いている。11:00林道が下り始めたので迷ったかと思い引き返す(そのまま100mも進むと杉の峠への登山口であったが)。一人の登山者と出会い、二人で伐採地の雪の斜面を遮二無二尾根へ突き上げる。漸く稜線に辿り着き、左のピークに登ってみると、嬉や其処が父不見山の山頂である。松とリョウブが生えている小広い頂に「三角天」と彫られた石碑が置いてある。時刻はジャスト12:00、両神山や武甲山が見える。同行の人は群馬町の高木氏、山頂で熱いコーヒーとお握りをご馳走になる。12:45風がゴーゴー唸り始めたので下山開始。13:05杉の峠、祠と燈籠があり巨杉が2本聳えている。14:05林道交差点、そこに高木さんの車が停めてあり高崎まで乗せてもらえることに。途中、藤岡の多野総合病院近くの喫茶店「楓」に立ち寄り休憩、お店のマスターは高木さんのラグビー仲間らしい。16:00倉賀野の旧国道で降ろしてもらい、16:30社宅着。後片付けと洗濯をしてから、夜柏に帰る。(後日、高木さんに御礼の登山靴下を贈る)
2002年2月16日(土)
6:00起床。前橋の最低気温マイナス3℃、全国的に冷え込む。朝シャンとシャワーで目を覚まし、医薬工場駐車場へ。8:00に集合したのは、天野、町田、菅谷、橋本、関口氏の5名。生利大橋から土坂峠に登る途中、道標に従い右の林道に入る。9:35幅の広い部分に駐車、歩き始める。林道沢口線との出合いから左、杉の峠へ向かう。20cmほどの積雪の中を登って、10:53杉の峠に着く。一帯は3年前の山火事で埼玉県側の杉の植林地が焼失し、その後皆伐されて一面禿げ山となっており、石祠脇の杉の巨木まで焼け落ちている。なんたることぞ。11:30父不見山山頂(1048m)着、二度目の頂きでカップラーメンとコーヒーの大休止、コンロとコッヘル、水を背負ってきてくれた関口さんと橋本さんに感謝。
12:15出発、一旦下って登り返し、12:36二等三角点がある長久保山(標高1066m)。そこから真っ直ぐ行けば寺平・摩利支天であるが、右の坂丸峠へと進む。積雪の尾根歩き、丸山を越え石祠(山の神)のある坂丸峠に着いたのは13:20。左は小鹿野町森戸、右は万場町小平に下る。右へ下り20~30cmの深雪をラッセル、13:50林道出合いの登山口にでる。真新しい大きな案内板が建ち、地味な山の筈が何時のまにか人気の山?。神流川橋を渡り小平の集落を抜け、道の駅万葉の里で一服、14:56のバスで万場へ出て、生利大橋から土坂峠へと上り返す。16:25漸く車に戻る。
川崎精雄著「雪山・藪山」
2022年1月17日(月)
転勤で群馬県高崎市に1979年~1983年、1996年~1998年、2000年~2003年とほぼ10年間暮らし、その間足繁く通った西上州や尾瀬の山々が恋しく懐かしくなる本。
作中に登場する西上州の父不見山(ててめえじやま)、1997年1月25日、前夜高崎の山仲間と万場町の蟹料理が名物の民宿山楽荘に泊まり大宴会、数日前の降雪で翌日は皆怖じけづき、私独りを万場に残してさっさと帰ってしまい、その薄情さを嘆きながらの単独行、今となっては懐かしい想い出です。
本著のお陰で、今年はひなびた温泉宿に逗留して周辺の山歩きをしたくなりました。例えば、夏油温泉、泥湯温泉、乳頭温泉郷、酸ヶ湯温泉等、実現できれば良いのですが。
君津メガソーラー発電所
2022年1月9日(日)
昨年12月、房総半島の核心部、元清澄山と三石山を結ぶ三石歩道を歩いたが、三石山観音寺が近づくとびっくり仰天、左下の山肌が太陽光発電パネルでびっしり覆われている。
元はゴルフ場予定地で、バブル崩壊で計画が頓挫、その後の産廃処理場建設計画も地元の反対で中止となり、すったもんだの挙げ句に太陽光発電基地に落ち着いたものらしい。
名称は君津メガソーラー発電所、敷地面積47ヘクタール、出力33.5MW、年間発電量4500万kwh。2019年4月1日の運転開始。
この規模でも全国90位というので二度吃驚、現在の最大は作東メガソーラー発電所(岡山県美作市)の出力257MWとのこと。近年、出力100MW以上のメガソーラー発電所が次々誕生している。原発1基(100万kw)分の太陽光発電には、58平方キロメートル(山手線の内側の面積)もの面積が必要らしく(発電効率は原発80%、太陽光発電20%として試算)、このまま太陽光発電を推進すると、日本全国の山野が太陽光パネルで覆い尽くされてしまう。再生可能エネルギーへの転換と言い、SDGsといい、分からないではないけれど、これは大規模な自然破壊では?、目の届かない地方を犠牲にして電気を作り都会に送電する、原発と同じ図式が行われている。やはり原発ゼロは夢物語かも。
阿部幹雄著「生と死のミニャ・コンガ」
2022年1月8日(土)
阿部幹雄著「生と死のミニャ・コンガ」読了。6日の雪で日陰の道路は未だツルツル、何処にも出かけられず読書が進みます。最近のブログが読書日記のようになってます。😅
1981年5月10日、北海道山岳連盟ミニャ・コンガ登山隊の第一次アタック隊12名が山頂直下まで迫るも、うち8名が滑落して大量遭難を引き起こす。アタック隊生き残りの著者によるその顛末記。初版が2000年9月なので、事故から19年が経っている。氷河末端で1名の遺体を収容、現地で荼毘に付し薬王廟に埋葬し慰霊碑を建立したのが1996年、一応のけじめをつけて4年後の出版である。
2007年6月、雲南省徳欽に梅里雪山(主峰カワクボ、標高6740m)を眺めに行ったが、梅里雪山でも1991年1月4日、日中合同登山隊17名(日本側京都大学学士隊11名、中国側6名)が雪崩により全滅している。
1991年5月に梅里雪山を望む徳欽の飛来寺に建立された慰霊碑は、その後の日中関係の悪化から、日本側隊員名は傷つけられて読めなくなっており、悲しくなったことを覚えています。
梅里雪山は現地のチベット族の人々が神と崇める山々、2000年に正式に登山禁止になり、今も未踏峰のまま残されています。未踏峰、バリエーションルート、世界初、冬季初、単独、無酸素、etc.、人間の限界に挑むのは素晴らしいのかもしれませんが、一旦遭難事故を起こせば、関係者はもとより世間に大きな迷惑をかける、登山家とは因果な商売?です。